課題文

 

「溺れている子どもをためらわずに助け、しかも自分がかなりの犠牲を払うことになってもそうするだろうということについては、私たちのほとんどが絶対確実だと考えている。ところが、毎日何千人もの子どもが死んでいるにもかかわらず、私たちは当たり前のように買うけれども、なくてもほとんど気付かないようなものにお金を使っている。これは間違ってはいないか。もし間違っているのだとすれば、私たちは貧しい人々に対してどのくらいの義務を負っているのだろうか?」 ピーター・シンガー

 

 

小学生の私なら「これは間違っている。人間には貧しい人々を救うという義務があるはずだから、全てを投げ打ってでも救済に向かうべきだ。」と答えるだろう。道徳の授業や大人からの教えを純粋に受け入れた結果である。だが、歳を重ねるにつれて答えは変わっていった。高校生である今の私は正しいか、正しくないかよりも可能か、不可能かを念頭においてしまう。いやな人間になってしまった、と思う。それと同時にこれが大人になるということなのだろうか、とも思った。

 

まずはひとつひとつ考えてみることにする。目の前で溺れている子どもがいたら助ける、というのは倫理的にも正しい行為だといえる。しかし本当にこの場面に遭遇したとき、自分は助けに行くことができるだろうかと疑問に思った。ピーター・シンガーは「私たちのほとんどが絶対確実だと考えている」と述べているが、私にはそうは思えない。以前、男性が川で溺れている子どもを助けたがそのまま亡くなってしまった、というニュースを見た。母はこのニュースを見て「この男の人はえらいね。」と言った。何故かと私が聞くと、「大抵の人は犠牲を払ってまで川には飛び込まないよ。」とそれが当たり前であるかのように言った。ためらわずに助けに行くことのできる人は凄い人なのだ、と先生に教わったことを思い出した。私自身そう思っているし周囲の人も、聞いてみるとそのように考えている人が多いようだ。(国民性が関係しているのかもしれない。)だがこれは行動に移すか移さないかの問題ではなく、心の問題である。私が疑問に思ったのはあくまで「犠牲を払ってまで人を助けることはできるか」についてであり、はじめに述べたように、倫理的に見れば正しい行為であるといえる。つまり、行動に関しては各個人の今まで育ってきた環境や思想によって変化するためここでこれだ、と定義することは不可能だ。

 

突然だがここでひとつ質問をしようと思う。あなたは「毎日たくさんの子どもが死んでいる」と本当に思っていますか。日本にいるとあまり意識はしないが、何処かの国には貧しく日々を生き抜くのに精一杯な子ども達がいるそうだ。だが果たしてこれは本当なのだろうか。私にとって、これは神を信じるか、信じないかの選択と似ている。大抵の人は海外旅行に行くにしてもハワイや中国などの国を選ぶであろう。ごく少数の人しか貧しいといわれている国には行かないのも事実である。私自身、教科書や新聞で見ることのできる一部の情報しか知らない。普段生活していてもこのような状況にいる人に会ったことはない。このようにひとつずつ順序立てて考えてみると核が見えはじめてくる。つまり、人間というものは自分の身近に起こっているものには意識を向けやすいが、反対に自分から遠く離れているものに関しては意識を向けにくい生き物であるといえる。意識を向けにくいというよりも推察が困難である、といった方が正しいだろうか。そのためこの「毎日何千人もの子どもが死んでいるにもかかわらず……」という問題を考えるにあたっても、今までの経験から導き出したいわば一般論を基にすることになってしまう。この考えをひとことでまとめると「ほとんどの人間はリアルな実感の伴うものとそうでないものとを無意識のうちに分けて考えている」となる。多くの人が、子どもの頃は(無条件だとしても)人を助けることが善いことであると教えられているであろう。それなのに成長すると、「遠くてリアルな実感から離れたもの(ここでは毎日死んでいく何千人もの子ども達のこと)」は自分とは関係のないものであるかのように見えてきてしまう。この現象はある意味では社会に適合する良い兆候であるともいえるが、少し哀しい気持ちになる。都合よく選択することは確かに必要なことだ。そうでないと現代社会を生きていくことは難しい。しかしこれは仕方のないこと、と諦めて自分を正当化する行為はしたいとは思わない。この葛藤の中に今私がいるのも高校生というどちらともつかない年齢にいるからこそではないかと思う。どこかでそんな自分に折り合いをつけなければいけないのはわかってはいるのだが中々難しい。しかし高校生という立場から見ると、この「何処にいるかもわからない子ども達よりも、自分の生活を豊かにするためのものにお金を使うことを優先する」ことはどこかで哀しい気持ちがあったとしても仕方のないことだと思ってしまう。もっと小さい頃の私ならば都合よく自分を正当化している、と思って大人を嫌いになっていたかもしれない。(実際にその頃、この考えに触れなかったことは幸福であったと今ならいえる。)いやな人間になってしまった、とはじめに書いたが、このような人間になっていなかったら今私は机に向かってはいないだろう。つまりこの問題が間違っているかそうでないか、は(多少答えに迷いがあるが)仕方のないことであり人間である以上当然のことであるといえる。迷いが生じる原因は私の心の何処かに「自分の認識しているもので救うことのできるものは全て救いたい」という思いがあるからであろう。私はこの思いがあるのは年齢が関係していると述べたが、もしかしたら他の理由があるのかもしれない。これは歳を重ねれば答えが出てくるだろう、と思う。

 

「毎日何千人もの子どもが死んでいるにもかかわらず、私たちは当たり前のように買うけれども、なくてもほとんど気付かないようなものにお金を使っている。」という問いに関しては、先に述べたように仕方のないことで人間として当然の認識であると私は答える。よってこれは間違いではないといえるだろう。ピーター・シンガーがわざわざ「もし間違っているのだとすれば……」と付け加えたのには、理由があると思われる。善い方向に、と道徳に全力で従おうとすると必ず何処かで矛盾が生じてしまったり何か問題が起こってくる。彼は、深く物事を考えずにこの問題を間違っていると批判する人達をあぶり出し本当にそれがあなた方にとって正しい答えなのか、と問いかけているのではないか。

 

よって「私たちが貧しい人々に対してどのくらいの義務を負っているのか」という問いは私の中では成り立たないことになる。自分と遠く離れた存在には確実な救済の気持ちが湧きにくいため、どのくらいの義務を負っているかについては答えることができない。しかしこれはあくまで私のようにずっと日本国内にいてこのような国と直接的な関係を持っていない人の場合であって、貧しい人々を救うために海外におられる方の立場から見ればまた変わってくるだろうと思う。最後に、個人的な思いを記すことが許されるのであれば私はこのように都合よく(リアルな実体のあるものを助ける気持ちは大きいが、そうでないものは助ける義務は無い)選択するような人間にはなりたくなかった。もう少し歳を重ねればこの思いもなくなるのだろうか。これを成長と呼ぶのかもしれない。それでも今は、自分がかなりの犠牲を払うことになっても身近な者を助けていきたい、と思っている。