夢とは何か。私は小さいころ何になりたかったのだろうか、そして今は何をしたいのだろうか。少し思い出してみよう。

小学校の卒業式ではひとりずつ壇上に上がって将来の夢を言うことになっていた。確か、私は「漫画家になりたい」と叫んだ記憶がある。そうして中学に上がると迷うことなく美術部に入ったのであった。毎日絵を描いて、部活でも友達が出来た。私は幸せだった。その頃は、純粋に絵を描くことが楽しかった。中学三年生になると、受験のため部活は引退せざるをえなくなったのだが、それでも塾の時間の合間をぬって絵を描いていた。勿論高校も美術系を考えておりオープンスクールなども足繁く通っていた。

しかし今の私は普通科の高校に通っている。何故か。夢を諦めた、などという話ではなく私自身で決めたことである。後悔は、していない。中学時代の私は絵を描くこと以外、何もしてこなかったと言ってもよい。先生のおすすめする本も、学校で習う数学も何ひとつ楽しくないものであると思い込んでいた。ある日突然気付いた。「私は今まで絵を描くことで現実から逃げていたのではないだろうか」。クラスメイトの男の子からからかわれようが、小さい頃からよく遊んでいた幼馴染に存在を忘れられようが、その頃の私はどうでも良かった。もしかしたらそんな私を、強い人間だと思う人があるかもしれないが、それは幻想だ。今まで絵を描くことで、自分の夢に近付く努力をしていると思い込んでいた。だが「現実逃避」のために夢を利用して良いのだろうか。許されるはずがない、と思う。

今思えば私は何も知らなかっただけなのである。日常の全てに盲目的な態度を取っていた。そんな態度を振り切って今の私がある。勉強はとても楽しいし読書好きが高じてこのように文章を書いたりもしている。尊敬する人にも出会えた。現実逃避の為でなく、本当の自分の夢だと胸を張って言えるものを探す為に普通科の高校を選んだのである。今もまだ夢を探している途中ではあるが、一生をかけて夢を永遠に更新し続けたいと思っている。ひとつの夢が叶ったらまたその上の夢を、といつか大人になっても夢を持ち続けたい。これは過去の自分を後悔させないためでもある。

課題文

 

「溺れている子どもをためらわずに助け、しかも自分がかなりの犠牲を払うことになってもそうするだろうということについては、私たちのほとんどが絶対確実だと考えている。ところが、毎日何千人もの子どもが死んでいるにもかかわらず、私たちは当たり前のように買うけれども、なくてもほとんど気付かないようなものにお金を使っている。これは間違ってはいないか。もし間違っているのだとすれば、私たちは貧しい人々に対してどのくらいの義務を負っているのだろうか?」 ピーター・シンガー

 

 

小学生の私なら「これは間違っている。人間には貧しい人々を救うという義務があるはずだから、全てを投げ打ってでも救済に向かうべきだ。」と答えるだろう。道徳の授業や大人からの教えを純粋に受け入れた結果である。だが、歳を重ねるにつれて答えは変わっていった。高校生である今の私は正しいか、正しくないかよりも可能か、不可能かを念頭においてしまう。いやな人間になってしまった、と思う。それと同時にこれが大人になるということなのだろうか、とも思った。

 

まずはひとつひとつ考えてみることにする。目の前で溺れている子どもがいたら助ける、というのは倫理的にも正しい行為だといえる。しかし本当にこの場面に遭遇したとき、自分は助けに行くことができるだろうかと疑問に思った。ピーター・シンガーは「私たちのほとんどが絶対確実だと考えている」と述べているが、私にはそうは思えない。以前、男性が川で溺れている子どもを助けたがそのまま亡くなってしまった、というニュースを見た。母はこのニュースを見て「この男の人はえらいね。」と言った。何故かと私が聞くと、「大抵の人は犠牲を払ってまで川には飛び込まないよ。」とそれが当たり前であるかのように言った。ためらわずに助けに行くことのできる人は凄い人なのだ、と先生に教わったことを思い出した。私自身そう思っているし周囲の人も、聞いてみるとそのように考えている人が多いようだ。(国民性が関係しているのかもしれない。)だがこれは行動に移すか移さないかの問題ではなく、心の問題である。私が疑問に思ったのはあくまで「犠牲を払ってまで人を助けることはできるか」についてであり、はじめに述べたように、倫理的に見れば正しい行為であるといえる。つまり、行動に関しては各個人の今まで育ってきた環境や思想によって変化するためここでこれだ、と定義することは不可能だ。

 

突然だがここでひとつ質問をしようと思う。あなたは「毎日たくさんの子どもが死んでいる」と本当に思っていますか。日本にいるとあまり意識はしないが、何処かの国には貧しく日々を生き抜くのに精一杯な子ども達がいるそうだ。だが果たしてこれは本当なのだろうか。私にとって、これは神を信じるか、信じないかの選択と似ている。大抵の人は海外旅行に行くにしてもハワイや中国などの国を選ぶであろう。ごく少数の人しか貧しいといわれている国には行かないのも事実である。私自身、教科書や新聞で見ることのできる一部の情報しか知らない。普段生活していてもこのような状況にいる人に会ったことはない。このようにひとつずつ順序立てて考えてみると核が見えはじめてくる。つまり、人間というものは自分の身近に起こっているものには意識を向けやすいが、反対に自分から遠く離れているものに関しては意識を向けにくい生き物であるといえる。意識を向けにくいというよりも推察が困難である、といった方が正しいだろうか。そのためこの「毎日何千人もの子どもが死んでいるにもかかわらず……」という問題を考えるにあたっても、今までの経験から導き出したいわば一般論を基にすることになってしまう。この考えをひとことでまとめると「ほとんどの人間はリアルな実感の伴うものとそうでないものとを無意識のうちに分けて考えている」となる。多くの人が、子どもの頃は(無条件だとしても)人を助けることが善いことであると教えられているであろう。それなのに成長すると、「遠くてリアルな実感から離れたもの(ここでは毎日死んでいく何千人もの子ども達のこと)」は自分とは関係のないものであるかのように見えてきてしまう。この現象はある意味では社会に適合する良い兆候であるともいえるが、少し哀しい気持ちになる。都合よく選択することは確かに必要なことだ。そうでないと現代社会を生きていくことは難しい。しかしこれは仕方のないこと、と諦めて自分を正当化する行為はしたいとは思わない。この葛藤の中に今私がいるのも高校生というどちらともつかない年齢にいるからこそではないかと思う。どこかでそんな自分に折り合いをつけなければいけないのはわかってはいるのだが中々難しい。しかし高校生という立場から見ると、この「何処にいるかもわからない子ども達よりも、自分の生活を豊かにするためのものにお金を使うことを優先する」ことはどこかで哀しい気持ちがあったとしても仕方のないことだと思ってしまう。もっと小さい頃の私ならば都合よく自分を正当化している、と思って大人を嫌いになっていたかもしれない。(実際にその頃、この考えに触れなかったことは幸福であったと今ならいえる。)いやな人間になってしまった、とはじめに書いたが、このような人間になっていなかったら今私は机に向かってはいないだろう。つまりこの問題が間違っているかそうでないか、は(多少答えに迷いがあるが)仕方のないことであり人間である以上当然のことであるといえる。迷いが生じる原因は私の心の何処かに「自分の認識しているもので救うことのできるものは全て救いたい」という思いがあるからであろう。私はこの思いがあるのは年齢が関係していると述べたが、もしかしたら他の理由があるのかもしれない。これは歳を重ねれば答えが出てくるだろう、と思う。

 

「毎日何千人もの子どもが死んでいるにもかかわらず、私たちは当たり前のように買うけれども、なくてもほとんど気付かないようなものにお金を使っている。」という問いに関しては、先に述べたように仕方のないことで人間として当然の認識であると私は答える。よってこれは間違いではないといえるだろう。ピーター・シンガーがわざわざ「もし間違っているのだとすれば……」と付け加えたのには、理由があると思われる。善い方向に、と道徳に全力で従おうとすると必ず何処かで矛盾が生じてしまったり何か問題が起こってくる。彼は、深く物事を考えずにこの問題を間違っていると批判する人達をあぶり出し本当にそれがあなた方にとって正しい答えなのか、と問いかけているのではないか。

 

よって「私たちが貧しい人々に対してどのくらいの義務を負っているのか」という問いは私の中では成り立たないことになる。自分と遠く離れた存在には確実な救済の気持ちが湧きにくいため、どのくらいの義務を負っているかについては答えることができない。しかしこれはあくまで私のようにずっと日本国内にいてこのような国と直接的な関係を持っていない人の場合であって、貧しい人々を救うために海外におられる方の立場から見ればまた変わってくるだろうと思う。最後に、個人的な思いを記すことが許されるのであれば私はこのように都合よく(リアルな実体のあるものを助ける気持ちは大きいが、そうでないものは助ける義務は無い)選択するような人間にはなりたくなかった。もう少し歳を重ねればこの思いもなくなるのだろうか。これを成長と呼ぶのかもしれない。それでも今は、自分がかなりの犠牲を払うことになっても身近な者を助けていきたい、と思っている。

「平和」とは

2年生は、11月の中頃に長崎へ修学旅行に行きますね。

名目上は平和学習ということになっていますが正直言って興味のある人は少ないでしょう。

学年集会で先生が「平和について考えてみて下さい」と言ってはいたけれど実際に考える人はごく僅かではないかと思います。

先生に言われたから考えてみる、という訳ではないのですがどうせ行くのであれば少しでも自分の中で「平和」とは何か、の答えを明確にしてから行った方が楽しめる筈です。

そのきっかけとして少しでもこの文がお役に立てれば幸いです。

 

私は「平和」は精神の安寧を保つことの出来るもの、だと思っています。

安寧(あんねい)とは平穏で無事なことという意味の言葉です。

例えば、学校でいじめられている女の子がいたとします。

周りにいる第三者から見ればそこは平和な場所とは言えないでしょう。

だけど当の本人からしたら、家に帰ったら家族から酷い暴力を受けるから学校は安全な所だと思っているかもしれない。

そうだとしたら女の子にとっては学校は精神の安寧の保てる場所、つまり平和な場所となる訳です。

逆に、周りから「君は平和な職場で良いね」と言われていても本人にとってみれば日々不安と闘う場所かもしれない。

その場合は精神の安寧が保てない場所、つまり平和な場所とは言えないのではないかと思います。

例が極端過ぎて分かりにくいかもしれませんが、つまり「平和」とは各個人の中で決まるものであると私は考えています。

絶対的で全員に共通する平和、は存在しないのではないでしょうか。

 

修学旅行では戦争による原爆の投下について学びます。

それに沿った例として「戦争の時代→戦争の終わった時代」を考えてみます。

このように、状態が移行した場合は2つを比較しているので殆どの人は「平和な時代になった」と言っているでしょう。

だけど今の私のように戦争のない時代に生まれ、育った人にとっては、今は平和な時代だと言えないかもしれません。

つまりこの場合にも各個人によって「平和」というものは異なってくる、ということが言えると思います。

 

最後に、拙い文章ですがお読み頂きありがとうございました。